アンの場合(1)

「先週、うちの娘が家を出てしまったの。そのうち帰ってくるわ、と言っていたけれど・・・」

 

アンの背中が急に丸く縮んで小さくなった。アンの娘ララは19歳。ヘビメタの服で全身を装い、体中にピルシングを付けた真っ黒な服が人目を引く。アンはそれでも、ララは見た目よりもずっと優しいいい子なのだと言う。

 

アンは整体師。自分の治療所をブラッセルに開業して30年になる。治療所の小さな中庭には、彼女が丹精込めた色とりどりの花々が咲く。おだやかな光の入る静かな部屋。この場所で仕事をしている時が一番生き甲斐を感じ、そしてここが自分の聖域だとアンは言う。

整体の勉強をしている学生の時に、当時の先生だった15歳年上の妻帯者と同棲を始めた。隠れて一緒に暮らしている間は面白かったが、27歳の時に「私は子供もつくらないし、結婚もしない」と決めて一人暮らしを始める。初めての一人暮らしは自由で楽しかった。

 

1989年9月にインドに旅に出た。インドの仏寺で偶然知り合ったフランス人の旅行者ダニエルにひかれる。初めて彼に会った夜に、彼女は「10月13日にダニエルと結婚する」という夢を見る。そして逢ったばかりのダニエルと翌月の13日に結婚した。

 

会ったばかりの男と「夢のお告げ」で結婚したアンは、最初にインドで巡り会った時にいだいていた“男性的で統率力のあるダニエル”というイメージと、現実の彼とがずいぶん違う事にすぐに気がつく。だが、すでにその時にはアンはララを妊娠していた。子供ができたということで、ダニエルとは何となくその後も一緒に暮らす日々が続いていた。

 

ララが10歳の時。アンの診療所に髪を長くしてサングラスを離さないポールが患者として門をくぐる。当時、彼は超売れっ子のTVコマーシャルの編集者だった。過剰なストレスと不規則な生活ですっかり体調を崩し、アンの所に治療に通い始めた。

 

整体の治療は一日では終わらない。時間をかけて、何度ものセッションでマッサージや筋肉トレーニングをしながら治療をして行く。おのずから患者とのコミュニケーションが出来る。

『整体の治療はね、患者と一対一で治療をするから良く話も聞くの。心理学者の仕事も兼ねているのよね。そして時にはそれ以上の事も…』とアンは笑う。

 

当時ポールは39歳。アンは6歳上の45歳。ポールは妻帯者で、8歳と7歳の子供がいた。 そしてお互いの家庭生活にけじめをつけて、一緒に暮らすようになった。

暮らし始めて最初にしたのが、ファーストクラスより値段が2倍のコンコルドに乗りNYに飛ぶ事。

 

そして半年後、子供達3人を連れてファーストクラスの飛行機で西海岸を廻った。ポールはコンサートを企画したり、ハーレー・ダビッドソンのバイクを乗り回したりで、毎日がエキサイティングだった。

だが、こんな贅沢な生活をする為にはお金も稼がなくてはならない。ポールは過剰な仕事のストレスのために、アルコールと麻薬に手を出すようになった。おのずから仕事の質が落ち、彼の評判が落ちていく。それでもポールはクライアントが去って行く事を自ら認めたがらずに、日一日と精神的にも経済的にも堕ちていった。

 

 

アンの場合(2)へつづく

 

2009.8.7