l'Hôtel Particulier(オテル・パテイキュリエ)-1

From 雪

  • l'hôtel de Matignon〈マチニオン邸=現・首相官邸〉
  • l'hôtel de Monaco〈モナコ邸=現・ポーランド大使館迎賓館〉
  • l'hôtel de Lauzun〈ローザン邸=パリ市美術財産〉
  • L'hôtel de la Paîva〈ラ パイバ邸=現・英国旅行者クラブ〉

フランス中に、革命前後に建造された貴族や銀行家の豪邸が点在して、現在の私達が見学可能な所も多い。特に政権に近いパリでは、それぞれの時代の有名人がサロンに集い、政治ネゴや文化交流が盛んに行われ、地方領地の城と都会にある別邸を住み分けていた。パリがヨーロッパ文化人の憧れの都だったから、こういった個人館に招待される外国人も多かった。豪邸は時代と共に、所有者が代わり、改修され磨かれ、あるいは放棄されたりした。フランス革命は、貴族や富者の邸を焼いたり盗んだり、政府が召し上げたりした。幸いに、現在まで保存持ちこたえた邸はオテルパテキュリエー(特別私邸)と命名して、歴史的建造物として保護されている。しかし、修復は昔そのままに復元しなければならず、壁布、カーテン、扉や椅子ひとつも、現所有主が好きなようにはいじれない。莫大なお金がかかり続けるから、もはや個人所有は不可能に近い。門、かつて馬車寄せだった前庭、玄関、階段、扉、部屋、壁、天井、床などに法外なお金がかけられている。各国大使館等に売却譲渡されたものは、治外法権で各国が館の責任を持つので、特別ルートがなければ、見学というわけにはいかない。建築当時に、常時使用人を含めた2300人が寝食できたのだから、スケールが大きい。国やパリ市が買い取り、美術館に改修されたりしている館も多い。例:現ロダン美術館はBiron 1728年建造)。

【マチイニオン邸】3m以上の高い門扉は、国家衛兵が護衛する
【マチイニオン邸】3m以上の高い門扉は、国家衛兵が護衛する

例えば5年前に、機会を得て訪れたイタリア大使公邸はパリのど真ん中で、今はほとんど使わないが、300人は入る赤ビロードの椅子が並ぶ劇場まで備えられていた。劇場は舞台に付属する出演者の部屋や照明、音楽など、見学者に許された範囲では計り知れない裏の面積もある。大サロンのレセプションでは、誰かがコーヒーやワインをこぼさないか、とは言え、歴史建造物の床を守る為に、邸にふさわしい厚手の100㎡ほどの大絨毯は必要。広大豪華すぎた。この邸の主婦である、大使夫人にはなりたくないと思ったものだ。


ほど遠くない所に位置するルーマニア大使館にも、昔の面影を遺すだけになり果てた劇場があった。あの半ば放棄された広い空間は、もったいない気がした。国家経済を象徴するように、見学可能区域には、めぼしい家具などさえ見当たらず、200年前の豪華建築の手入れの行き届かない例を見せられたようで、うら淋しくなったものだ。

◆マチイニオン邸〈現・首相官邸〉

バルコニーのある2階が首相家族の居間
バルコニーのある2階が首相家族の居間

1719年と言えば、ルイ15世が9歳になった頃に建築が始まり、それから4年後にマチニオン公爵が買い取り、老年迄暮らし、この名が残る。その後、タレイラン、ナポレオン等買い主が代わって行くが、1922年国が買い取り以後官邸となっている。アンバリッド近くで、邸のイギリス庭園だけで3haはある。国家政治事情が許す、ごくたまの土曜日の限られた機会をとらえて見学したが、表門と中庭以外の写真は一切禁止。保安の為だろう。現首相家族が階に暮らし、秘書、料理、警備など400名が常駐して、任期交代の場合は、この内300人位は人間が入れ替わるのだそうだ。親分交代で、子分も交代と考えれば良い。ここで毎週水曜日の午前中に定例閣僚会議が持たれ、首相が招待客とさしで昼食をとる場合は、13:00〜14:00の1時間以上テーブルに着く事はない。首相の名誉と責任は、家族も道づれにならなければならない。

毎日、この玄関前庭に大臣の車が滑り込む
毎日、この玄関前庭に大臣の車が滑り込む

次に紹介する、モナコ邸に転居する姫のご亭主が、そもそもマチイニオン公爵なのである。モナコ公妃と10年来の愛人関係にあって、子孫を遺すため結婚しなけれならない公爵は、公妃の娘と結婚。その母親と階で暮らし続け、妻は階下で暮らした。公然の秘密に我慢した姫も、ついに別居を決めるのだ。

 

 

次回は、モナコ邸、ローザン邸をご紹介します。お楽しみに!

 

 

2012.5.7