シング・ストリート未来のうた

ポスターや予告編を見る限りでは、50代の我々にとっては、息子や娘たち世代の映画である。それでも観に行ったのは、「ONCE ダブリンの街角で」「はじまりのうた」の2作品のファンだからだ。それも、突然思い立って、友人と観に出かけた。だから、今回の映画のストーリーを下調べしている時間もなく、前知識ゼロで観たと言うわけだ。私の場合は、このケースが多い。いろいろと調べたりしていると、まっさらな気持ちでその作品に飛び込んでいけない。何も知らずに無防備なまま、いきなり作品に入っていくのが好きだ。前置きが長くなったが、今回もそれが良かった。

時代設定は1985年。不況が長引くアイルランドのダブリン。

15歳の主人公少年コナーは、父親の経済的な事情で公立の荒れた学校に突如、転校することになった。それはすさまじく荒れた学校だった。転校生を1年間いじめ続けるという落ちこぼれ少年。校則を守っていないと言う理由で、執拗にコナーをいたぶる陰険校長。自宅では、両親が毎晩のようにケンカ。母親に恋人ができたらしいのだ。両親がいて、兄と姉がいて、今まではそれなりに幸せに優等生オボッチャマとして育って来たコナーには、平和な日々が足下から壊れて行くその状況に戸惑う事しかできなかった。そんなとき、放課後校門を出たその目の前に、今まで出会った事もないカッコイイ女の子が立っていた。コナーは、磁石で吸い寄せられるようにまっすぐ彼女の前に歩み寄る。「君の名前は?」「このあたりの学校の生徒?」「いいえ、私はモデルなの」。そのときとっさにコナーが彼女に言った言葉は、「僕、ミュージックバンドを組んでいるんだ」「こんど、MVを制作するから出演しない?」だった。彼女の返事は「イエス」。

コナーの友人もビックリするこの突飛な嘘で、一瞬の間に彼女の連絡先を手に入れる。さあ、ほんとうにバンドを結成しなければならない。この不良落ちこぼれ学校の中で、音楽仲間を探し、バンドを結成するために必死になるコナー。

映画を観ているだれもが、14〜5歳の青春の入り口に立つ自分と重ね合わせていたのではないだろうか。毎日が、そのことだけで過ぎて行く。人間はこうあらねばならないとか、他人からどう見られているのかとか、そんなことはどうでもいい。まっすぐに、明日だけを見つめている。今日に繋がっている明日だけを。監督ジョン・カーニーのそのあたりの演出が素晴らしい。エモーショナルになりすぎない分、リアリティーがある。ジョン・カーニー監督の映画なのだから、音楽は言うまでもなくスゴイ。デュラン・デュラン、ザ・キュアー、ダリル・ホール&ジョン・オーツなど、80年代を彩った音楽がふんだんに使われている。

そして、もうひとつこの監督の映画の特徴は、必ず主人公が関わっている友人や家族をきちんと描く事だ。今回も、兄との関係をリアルに描いていた。当初はエリートジェット気流に乗っていた音楽好きな落ちこぼれ兄の、弟へのエールがたまらない。胸を熱くしなければ観る事ができないほどだ。そして、最後のシーンこそ、この映画の最大の見せ場だと思う。モデルを夢見るひとつ年上の彼女と、音楽に目覚めたコナー少年が、兄に見送られて祖父のボートで、ロンドンを目指すのだ。波のしぶきが二人にざぶざぶとかかる。それでも、二人の顔は未来に向かって輝いている。もしかしたら、たどり着けずに、数時間後には戻って来ているかもしれない。でも、明日に向かって、一歩を踏み出したその恐れを知らない若さが、ヒリヒリと伝わって来て観客の胸をしめつけるのだ。そして観客だれもが自分に問いかける、「忘れていないか、夢を」と。最後の最後にもうひとつ。ロンドンに行くために夜中にこっそり家を出るコナーが、眠っている母親に「See you.」「I love you. mum」と別れを告げるのだ。ここにも、なぜか、グッときた。15歳のコナーはオトナと子供の狭間に立っているのだ。こういう、普通ならカットしてしまいそうな演出が、この監督のたまらない魅力だと思う。いつもの事だが、劇場で静かに座って観賞する事がつらかった。こころもカラダもあの世界へ入り込んでいたからだろう。

 

「シング・ストリート」公式サイトhttp://gaga.ne.jp/singstreet/

 

2016.9.16