Vol. 7

ベートーヴェン/弦楽四重奏第14番(ウィーン・アルバンベルグ四重奏団)

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番&第14番

むかし本で読んだ話ですが、フランスの作家マルセル・プルーストが晩年、当時ヨーロッパ最高といわれたカペー四重奏団をとつぜん深夜の自宅によんで、ベートーヴェンのこの弦楽四重奏を演奏してもらったそうです。

 

もう体は弱り、ベッドに横たわったままのプルーストは、そのあくまでも贅肉を削いだベートーヴェンの精神そのもののように透明な旋律に身をゆだねていました。薄暗い彼の部屋の床には、延々と書き継いだ「失われた時を求めて」の原稿が乱雑に散らばっていたそうです。

その小説は、いまや20世紀文学を代表するといわれる大長編です(フランス語原著にして3000ページ以上)。この終わりなき大河のような小説を書くことに半生を捧げた小説家が、晩年の深夜に、生演奏でひとり聴きたかった音楽がこの曲だったということに私は深く想いをいたします。

 

当時も、ヨーロッパには巨万の富を持つ人間はあまたいたでありましょう。しかし、深夜に超一流の四重奏団を自宅によぶという、ある意味でとんでもなく乱暴なことを敢行した人間はどれほどいたでしょう。そのような真の贅沢を味わった人間が何人いたでしょうか。

 

この曲は、ベートーヴェンが最晩年に作曲したものです。この大作曲家は、ピアノソナタ第111番にしても、交響曲第9番にしても、死ぬ間際にとてつもない作品を書いています。人類すべてのための遺産とも呼べる音楽をです。耳が聴こえなくなり、余命幾ばくとないということを感じてから、音楽世界のエベレストに爪を立てながら挑み、這いつくばってよじ登りました。そして、その未踏の頂きに辿りついたのです。

 

私は淋しいとき、切ないとき、孤独なとき、この曲をよく聴きます。そして、そこにあるきわめて人間的な祈りのようなものにこころを打たれるのです。

 

プルーストお気に入りのカペー四重奏団による、SP原盤から復刻したモノラルのCDも東芝EMIから出ています。すばらしい演奏ですが、ノイズ音の入った3枚組CDです。それが気にならなければ、お薦めです。

 

2011.5.31