l'Hôtel Particulier(オテル・パテイキュリエ)-3

◆ラ パイバ邸〈現・英国旅行者クラブ〉

シャンゼリゼ通りに面した黒と金の鉄門。当時の有名文化人を乗せた馬車の出入り口だった
シャンゼリゼ通りに面した黒と金の鉄門。当時の有名文化人を乗せた馬車の出入り口だった

シャンゼリゼ大通り、人目を惹く豪華な鉄門の奥が、元を正せばひとりの娼婦の大成功を象徴する邸だった。イタリアルネッサンス風のサロンに通ずる、正面階段の壁はアルジェリアから運ばせた、当時でも珍しい黄色オニックス。ナポレオン3世代の文化人はこぞって、彼女に招かれたがった。寝室に続く、アラブ風装飾浴室の大風呂には3つの蛇口があり、水、湯、そして3つ目の蛇口をひねれば、牛乳とシャンパンが流れでてきた。千夜一夜物語だ。

 

赤ビロードの椅子をすべらすと、ジンクの風呂桶が現れる。 金製の3つの蛇口。
赤ビロードの椅子をすべらすと、ジンクの風呂桶が現れる。 金製の3つの蛇口。

下層階級の器量良しな娘は、ポーランド人両親の移住でモスクワ生まれ。17歳で仕立て屋のフランス人と結婚。一児と夫を捨てて、パリにやってきた。パリで売れっ子のピアニストと恋をしたが、彼女の乱費癖に恐れをなして、恋人はアメリカへ逃亡。金が不自由になった女を見て、「ロンドンで、私の作る服だけを着て社交界に出入りする仕事」を提供されて、英国移住。はしりのファッションモデルで、小金が貯まるとパリに舞い戻った。ポルトガルのパイヴア侯爵が骨ぬきにされ、彼女は侯爵夫人に出世した。まだ、周囲になにもない畑地のシャンゼリゼ通りに目をつけ、邸は金に糸目をつけず、パリ一豪華にという彼女の希望通りに建てられた。各部屋毎にある暖炉のひとつひとつを見るだけで、ため息の出る金がかけられている。1855年から始められた工事は、10年余をかけて1866年完了したが、金の切れ目は縁の切れ目。結婚解消許可がおりると、捨てられた侯爵は自分の胸をピストルで撃ち抜いた。

侯爵45歳の秋の夜だった。

緑オニックス、金の賦取り、銀の彫刻。これは暖炉なのだ。
緑オニックス、金の賦取り、銀の彫刻。これは暖炉なのだ。

エリーゼ宮裏門から歩いて近いこの邸には、ナポレオン3世の義弟も仮住まいしたことがある。ナポレオン1世兄弟の末裔やメリメ、ゴンクール兄弟、テオドールゴーチエ、ガンべッタ等、文化や政治関係者が頻繁に出入りした活気あるサロンの采配もしたのだから、美しいというだけの女ではなかった。一方、ナポレオン3世は1870年「対プロシア戦争」で敗戦捕虜になった。戦争はビスマルクプロシア宰相のしかけた外交罠にはまったといわれている。

暖炉の上の大理石彫刻だけで、2mはある。
暖炉の上の大理石彫刻だけで、2mはある。

パイヴア侯爵夫人は夫が亡くなった後、11歳年下でハンサムなプロシアの外交官伯爵と恋におちていた。仏国政府としては、敵国プロシアの、しかも憎らしいビスマルクと親戚筋の男と、元はと言えば得体の知れない侯爵夫人にスパイ容疑をかけて、国外退去をやむなくさせた。若者の故郷の城で結婚。伯爵夫人として、その城で64歳の生涯を閉じた(1882年)。女の権利というようなものは一切なかった時代、デュマの小説「ナナ」のように、路傍にたたずんでいた女が、舞台をパリに置き、音楽を愛し、ポーランド、ロシア、英、仏、独語を巧みにこなし、男達をひざまずかせた。パリ社交界は彼女に征服された感があったが、パイヴァ邸に暮らせたのは5年間でしかない。

 

1903年以降、邸はエリートイギリス人用のプライベートクラブとなっている。土日曜日の午前中、邸専属ガイド付きに限って見学できる。


ラ パイヴア夫人の居間天井の木製金ばりのとがった先端の1つ1つにガス灯が付けられていた。
ラ パイヴア夫人の居間天井の木製金ばりのとがった先端の1つ1つにガス灯が付けられていた。
オニックスをふんだんに使った階段
オニックスをふんだんに使った階段

2012.6.28

世の中をハスに眺める癖のある自由業主婦。
人間相手だとイライラがつのるので、自然風物を愛でる。
但し仙人ではないので、普通の社会生活に準じているつもり。
フランス在住20年。