ベル・イル島のバカンス<Belle –Ile –en- Mer>(2)

第4日目、この偶然集まった女たちは「仕事」を持っているのが分かってきた。ソシアルワーカーの仕事をしている40代の女性が、アメリカインデアン儀式用の簡単なダンスを提案して見本を踊った。天と地に感謝を捧げる歌と踊りは簡単で覚えやすい。裸足で草の上を輪になって、にわかインデアンになる。このダンスは皆に受けて、最終日に招待した島の市長夫妻や村人(近隣の夏用セカンド・ハウスの住人はドイツ、イギリス人など)が家族連れでやってきて、子供も男も皆が輪になって踊った。

作品と私
作品と私

体験学習は、私個人としては、日仏間のアイデンテイーの柵が取り払われて、他の人と同じように歌ったり躊躇せずに発言する自由を感じた。これは、集まった皆が日本文化をある程度知っていたからだと思う。最近の日本文化に対する仏人意識は、私が始めてフランスに住んだ30年前とは格段の差がある。昔はかなりのインテリ層でも、日本について知っている人は稀だった。東と西の風俗習慣の違いを説明したり、弁護したりするのに精神疲労を感じたものだ。

 

第5日目、仲間から『書』を所望された。水彩画クラスの人から太い絵筆と墨絵の具を借りて、上手下手は無視して、筆運びを披露して喜ばれた。もう忘れるほど長い間筆で字を書いたことはないのだが、昔取った杵柄でなんとか誤魔化した。皆の欲する簡潔な仏語を日本字に置き換えて「平和」「禅」「天地」などと。

 

今日の粘土造形のテーマは物質でも現象でも何でも良いから「満ちた状態」「空洞、あるいは無」をどう捉えるかを表現せよとの事。講師が何を望むのか、私には理解できない。「何でも良いから形を作って、理屈をひねりださねばならない!!」なんとなく頭の体操をしている様な毎日だ。

アトリエ交換会と滞在した場所
アトリエ交換会と滞在した場所

第6日目、最終日。午後から参加者27人の制作品展示会があるのだという。それぞれが3~5作品を机に並べ、草や花、枯れ木や海で拾った石や貝殻で未熟な腕かくしの工夫を凝らす。水彩画クラスは素敵な海辺の家や岩、空の風景が壁面を飾った。夕方、ベル・イル島に50年腰をすえているという元漁師の女房から市長さんまでが現れて、島の小さな文化活動に賛辞を呈す。
素朴で気軽なパーティがお開きになり、皆が一同に会し遅い夕食が始まった。アルコールが程よく回って、デザートになると誰からともなく歌がでてきた。漁師の女房が「ダメダメ」と拒否していたのはジェスチャーで、その歌声の力強く響くのには、皆が思わず静かに聞き入った。彼女の2曲目も島に伝わる民謡で、皆でリフレインを唱和した。若い漁師に恋する娘を茶化す、哀切をこめた歌詞で島生活の苦楽がしのばれる歌いっぷりで、拍手がやまなかった。あのイギリスの小母さんが、突然すばらしい声で歌い出した時のように、皆がびっくりさせられた。彼女のご主人は海で亡くなったのだと後から聞いた。強い海風に向かっても聞こえる腹の底から湧き上がる発声だった。

第7日目、出発の別れ。それぞれがストラスブール、ボルドー、レンヌ、ナンシーへと帰路につく。私も含め何人かは宿をかえて島の探索をする。10年程前にキブロン岬に滞在した時、船でブルターニュ沿岸の島めぐりをした。その時、1日かけてベル・イル島を主人とリックサックをしょって歩いたのだが、今回来てみて、それこそ不思議な位風景に見覚えがなかった。やはりアルツハイマーが始まっているのかなあ。

サラ・ベルナールの館
サラ・ベルナールの館

第8日目、島の最西端にあるサラ・ベルナールの別荘へ地平線に沈む太陽を見に行った。そう、この島は20世紀のフランスで一番知られた女優サラ・ベルナールが愛した島なのだ。遺体は島に埋めて欲しいという遺言は守られずに、マドレーヌ寺院で盛大な葬儀が行われ、ペールラシェーズに眠っている。波にぬれて黒くて荒い硬い岩盤に建つ館は、現在美術館になっていて訪れることができる。彼女は優しく快適な風景を拒否したのだろうか? 目の前には、いつでも自殺できそうな高く恐ろしい岩がそそり立っていた。

フランス人のお家芸「バカンス」にも、色々な過ごし方があるものだ。大家族に育った人のおそらく80%は親元へ戻ったり、親の方が子供の家を巡り歩いて家族の絆を強くする。こうして過ごすバカンスにも母なる女の存在は大きい。独り身の女たちも、最後の日が来るまでは、せめて精神の健康は保ちたいと、フランス中の山村や海辺にある集中アトリエで何かを得ようと努力している。30’s、40’s、50’s、60’s、何歳でも良い。毎日をあまり無為にすごさない「女」はエライ。

 

ベル・イル島のバカンス(1)から続き

 

 

2010.10.4